沖縄がまだアメリカだった頃から、私は沖縄に強い憧れを抱いていた。
海外旅行が普通の感覚ではなかった時代、沖縄は行こうと思えば行ける気がする身近な外国だった。
自由の国アメリカ、そして何より暖かい島である沖縄は、1972年5月15日に、アメリカから返還された。 私が10代の頃のことだ。
私が生まれ育った東北の街は、雪が少ないとはいえ風の冷たい寒さの厳しい街だった。だから、いつも暖かい地方、たとえば沖縄に行ってしまいたいと愚痴っていた。
沖縄ツーリング 土砂降りの赤いテールランプ
モトクロスを諦め、旅をするためにセローに乗り換えた頃。父を亡くし、祖父母を見送り、やっと自由な時間を得られるようになった私は、沖縄へ行くことに決めた。
実家は家業を営んでおり、父が他界してから母がひとりで仕事と介護に奮闘していた。フリーターの私が手伝わないわけにはいかず、まともに旅をすることもしばらくできなかったから。
バイクショップで、今度沖縄行ってきますと言ったら、ショップの店主、通称とつぁんが言った。
沖縄行ったライダーは、ほぼ100%沖縄で出会った人と結婚するって言うジンクスがあるんだよ。
はたして、私もその通りになったわけだが、話は単純ではない。
旅立ち
当時は、東京湾から那覇港へカーフェリーが就航しており、バイクで沖縄へ行くことは楽にできた。
仙台から突っ走って、都内で迷いながらも東京のフェリー埠頭にたどり着き、あとは船に揺られて2泊3日過ごせば沖縄に着く。
残念ながら、片道1743kmという日本最長の旅客航路だった東京~沖縄間航路 旅客フェリーは、2014年12月に営業を終了している。
キセキ
沖縄は梅雨の季節だった。那覇港に下り立つと、空気が重たく湿っていて、呼吸が苦しかった。
毎度のことながら、宿も目的地も決めていない。電話帳や何等かの手段で宿を探し、電話ボックスから予約の電話を入れる。
大抵は、安くて安心なユースホステルを利用していたから、ガイドブックを頼りに宿を探した。
本島の南部を走り終え、ちょうど島の真ん中あたりのユースホステルの駐車場に着くと、カワサキのライダーがいた。
お互いのナンバープレートを見てすぐに打ち解けた。どちらも東北の県名だったから。
遠くへ旅をすると同地方人はもはや他人ではないと思えてしまう。
Rainy Blue
出会った夜に居酒屋で軽く飲み
翌日は海岸で子どものように遊んだ
バイクを連ねて気に入る海岸を探した
初めて会ったことも異性であることも意識せず1日海岸で過ごした
彼は弟と同じ年だった
日が暮れかかる帰り道でひどい土砂降り
前を行くバイクの赤いテールランプだけを頼りにユースホステルに無事帰った
たぶん一生忘れないワンシーンだ
2人ともずぶ濡れで言葉もほとんど交わさず
冷えた身体を温めるため、まっすぐに大浴場へ向かった
Missing
そして別れの朝
お互い旅のバイク乗りらしく
じゃあ元気で!と軽い挨拶をして片手を上げ
右と左に別れてそれぞれの行き先へ向かってバイクを走らせた
チラリとバックミラーに映る後ろ姿を見送って
私はスピードを上げた
具体的な行き先は決めていない
その日の宿すら決めていなかった
沖縄本島の北を目指してひた走る
先に進むほどに涙が出そうになる
彼は離島へ渡る船に乗ると言っていた
まだ間に合うかもしれない
私は衝動的にブレーキをかけてUターンした
彼は港にいた
言葉なく困ったような顔をした
旅のあと何度か便りのやり取りをした
彼の日本一周の旅が終わる前に私は全く違う相手と交際を始めていた
リフレインが叫んでる
そんな出会いが15年間という長いようで短いバイクライフの中で、たった一度だけあった。
旅の資金が切れた私はひとり、船で沖縄を後にした。その後の手紙で彼も金欠で大変だったと知った。
This is where I long to be, La Isla Bonita
那覇から東京へ向かうフェリーの甲板で、別れの寂しさに涙した。
持参したラジオからは、マドンナのラ・イスラ・ボニータが流れていた。
疲れ果ててザコ寝部屋で寝ている私に、毛布を1枚かけてくれた人がいた。
後に私が結婚することになり、5年で離婚した人だ。
何が正解で何が過ちなのかは、結果が出るまでわからない。
ただひとつ言えることは、第一印象で何かを感じた人も物も大事にしたほうが良いということ。
旅はまだ終わらない
いま乗っている250TRも、あれかこれか1年迷って決めたバイクだ。
1年前にひとめ惚れした車種、色も年式も同じバイクだ。
再び出会えたのは、運命としか言いようがない。
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