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第15章:夕暮れの国道286号線で悲嘆にくれた彼はレーサーになった

夕暮れの国道286号線で悲嘆にくれた彼はレーサーになった バイク女子

国道286号線、通称笹谷街道、愛称ニーパーロクは、宮城県仙台市青葉区から山形県山形市に至る一般国道だ。

総延長は約68.8 km。

現在の286号線は、急勾配や急カーブが多い現道とバイパス区間があり、一般的にはトンネルや橋が多く設置されている有料のバイパス区間が利用されている。現道の笹谷トンネルには、やはり、お化けが出るという噂があった。

山形自動車道が開通してからは、併用していたバイパス区間は高速道路に格上げされ、286号線の一部ではなくなった。

北を走る国道48号線と共に、286号線は南から仙台と山形を結ぶ主要道だ。


20代の頃、私はこの道で残念な事故に遭遇した。



夕暮れの国道286号線で悲嘆にくれた彼はレーサーになった

夕暮れの国道286号線で悲嘆にくれた彼はレーサーになった
Yahoo!地図

その289号線の都心寄りの一部は、当時の私の通勤路だった。自宅からバイクで20分ほどの場所で、アルバイトをしていた。

11月下旬のある日の帰り道。ほんの少し残業したため、日は暮れて外は暗くなっていた。通勤ラッシュの時間から少しずれたため、交通量の多い時間帯を過ぎていた。

宮沢橋交差点の手前あたり、仙台方面に向かう道路は片側3車線から4車線となる。宮沢橋交差点はほぼT字路になっていて、3車線のまま左折していく。



ほとんど車がいなかったため、広い道路は暗かった。ちょっと緊張するそのT字路へ向かう覚悟を決めながら走っていると、ふと前方左車線の暗闇に何か黒っぽい塊があることに気づいた。

スピードを落としていくと、それは人だった。しかも、2人か?1人は道の上に倒れていて、もう1人はその傍らにしゃがんでいる。更にスピードを落として近づいていくと、すぐそばにはバイクがとまっていた。

あ、事故だ。急に動悸を覚えながら、落ち着いて少し先の路肩に自分のバイクをとめた。エンジンを切って人のいる場所へ近づくと、青年の声が倒れている人に向かって繰り返し呼び掛けている。

「おばあさん、おばあさん、おばあさん!」




現場検証

現場検証

倒れている人影は全く動いていなかった。足はむき出しのまま、スカートがめくれ上がっている。私は、頭部のそばに血痕を認めて躊躇ったが、自分のジャケットを脱いでおばあさんと思われる人の足元を覆った。

暗い歩道には、異変に気付いた近所の住民や歩行者が集まってきていた。警察に電話して下さいと呼びかけたが、既に誰かが警察に電話したようだった。

救急車や警察の車が到着し、現場検証が始まった。私は震える青年の肩を抱いてずっとそこにいた。警官は、ちょっと厳しめに私に言った。

「一緒だったの?」

「いいえ」

「知り合い?」

「いいえ」

「事故見てた?」

「いいえ」

じゃあ、なんでそこにいるの?そんな感じだ。

私は心の中で言った。だって、同じバイク乗りだから。




高校生の彼には何か事情があるらしく、親と離れてひとりで暮らしていたらしい。バイト先に戻るためバイクで走っていたら、闇の中からお婆さんが浮かび上がった。その時にはもう遅かったということだ。

警官に、もう帰っていいからと言われ、私はしぶしぶバイクに乗って自宅に帰った。ずぶ濡れのヒヨコのような弱々しい青年を残して。

新聞で死亡事故として掲載されたことを、翌日知った。どうしようもない気分がそれからずっと続いた。




数ヶ月後

数ヶ月後

数ヶ月後、青年が私の実家を訪ねてきた。菓子折りと花束をもって、保護司と一緒に丁寧に挨拶をしていった。

被害者側の親族は、信号も横断歩道も無い場所を渡ろうとした祖母が悪かったのだから、将来のある青年にかえって申し訳ないと示談にしたそうだ。

彼がなぜ花束を持って来たかというと、彼が訪ねてくる直前に父が急逝したからだ。




それから毎年、青年から便りが届くようになった。元気でやってますと。

数年後の頼りには、高校を卒業して夢だったレーサーになりましたという文章に、皮つなぎ姿の彼の写真が添えられていた。

事故以前から、実家のことや将来のことで深い悩みにはまり込み、暗い気持ちで過ごしていた私は、彼の便りに明るい希望をもらった気がした。




それからも、彼の便りは続いた

それからも、彼の便りは続いた

それからも、彼の便りは続いた。

私は結婚して実家を離れ、荒んだ結婚生活、その後の引っ越しの繰り返し、ひとり暮らしの生活苦などなど、様々な変化の中にいた。

いつからか、彼の便りを受け取っても返信ができなくなっていった。そのうち、頼りそのものを受け取ることもなくなった。




実家から送られてきた最後のハガキには、結婚しました。子供も生まれました。そんな一言と共に、笑顔の家族写真が添えられていたことを記憶している。

そして、いい成績が出せず、レーサーは辞めたということも知った。

人避け気味の私が誰かの肩を抱いたのは、あの時が最初で最後だ。




私はまた乗り始めました

私はまた乗り始めました

Tくん、今もきっと元気だと思います。バイク、乗ってますか?

私はまた乗り始めました。

君が事故の後、バイクを辞めてしまわなかったことが、とても嬉しかったです。






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