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第7章:25年振りに、バイクある日常に彼女は帰ってきた

第7章 復活 バイク女子

22歳でバイクに乗り始めてから、色んなことがあった。

  • バイクが楽しくて仕方なく、何処へ行くにもバイクだった日々
  • バイク中心の生活から離れ、自分を見失いそうになった日々

楽しいことばかりでは無かったけれど、悲しいことばかりでも無かった。

半分半分、良くできている。



積もる話はあるけれど一旦、脇に置いて今の話を少ししておこう。

25年の紆余曲折の末、私は再びバイクのある日常を手に入れました。

偶然だった気もするし、必然だった気もします。



『あの日々』の感覚がよみがえるかと思っていたけれど、全く違っていた。

バイクのある日常は、私に新しい発見をもたらしてくれました。


著者プロフィール

名前:みどりのシカ

女性だけどバイクに魅せられた。20歳で初めて自転車に乗れるようになり、その2年後に中型二輪免許取得。きっかけは片岡義男「幸せは白いTシャツ」と三好礼子氏との出会い。

20代の頃、ほぼ毎日オートバイに乗っていました。遠くは四国、沖縄まで旅をしました。わけあってオートバイを手放してから、かなりの年月が経過。
けれど幸運なことに、いきなりバイク復帰しました。25年ぶりの相棒は、KAWASAKI 250TR。愛称をティーダと名付けました。ただいま、自分慣らし中です。




25年振りのバイクのある日常

25年振りのバイクのある日常

私が再びバイクに乗ることに決めて選んだバイクは、KAWASAKI 250TR。

バイクと聞いて人々が想像する形を具現化したような、10年落ちのシンプルなバイクです。

オドメーターとトリップメーター、スピードメーター、あとは付いていてもいなくても、まあいいか、というランプ類が数個付いているだけ。

キーONすると、かすかに燃料ポンプの起動音が聞こえてくる。FIならではの音。

同時に警告ランプが点灯し、息をひそめながらセル動作を待ち構えている。

セルSWを押すと、軽く身震いをしてエンジンが目覚め、警告ランプが消灯する。

最近のバイクにあるようなハイテク装備など無いけれど、だからこそこのバイクを選んだ。


バイクとの距離感

バイクとの距離感

私はまだ、久しぶりにバイクに乗る自分を恐るおそる慣らしている状態です。

そしてバイク屋の片隅で私を待っていた中古バイクも、私と同じように久しぶりに道を走ることになった。

2人して、不安定な動作を確認しながら走る日々が続いている。

久しぶりのバイクのある生活に、少しずつ馴染む過程を楽しんでいる。


心を空っぽにして、現れては消えていくコーナーに集中することが気持ち良い人もいる。

しかし、多くのバイク乗りは、道を走りながらいろいろなことを感じたり、考えたりしてるはず。

25年ぶりに、再びバイクに乗ることになった私も例外ではない。

初めのうちは、中古バイクの状態の不安定さとか、道路の状況とかを考えながら走っていた。

そして、何よりバイクの上でぎこちない自分の動作について考えていた。



けれど、ショートツーリングを重ねるうちに、バイクで走るさまざまな感覚に気づくゆとりが出てきた。

そして最近、バイクに乗りまくっていた若い頃には感じたことの無い感覚に気がついた。

もちろん昔と乗っていたバイクとこのバイクは、タイプが違う。だから乗り味が違うのは当たり前だ。

だけどそんな違いではなく、昔と今では本質的に違う感覚で乗っているのに気づいた。



若かった頃には、前に前に、より早く走ることばかり考えていた。

しかし今はゆっくり丁寧に、排気音を聞きながら、エンジンの振動を全身で感じながら走ろうとしているのだ。


バイクのある生活は、新しい発見に満ちていた 【浮遊感】

バイクのある生活は、新しい発見に満ちていた 【浮遊感】

その日は、自然の風が少し強めに吹いていた。

道の前後を見渡しても、他に走っている車も無い。

私と私の乗ったオートバイだけが、小さな山々に囲まれた農家が点在する細い道を、40km/h程で走っていた。

緑に囲まれたその道に、走行を邪魔しない程度の強めの風が吹いていて、心地よい感覚に包まれた。



ある瞬間、今まで聞こえていたはずの排気音が聞こえなくなった。

全ての音、風が頬をなでる感覚も止まった。

まるで異世界を浮遊しているような不思議で自由な感覚に包まれる。



無音の世界に、自分だけが存在しているのだ。

上昇気流に乗り、空高くを滑空している鳥も同じ感覚を味わっているに違いない。

だだ、路面からタイヤが伝えてくる凸凹と、エンジンの振動は感じる。

それだけが、現実世界に自分をつなぎ止めている。



風向き、風速とバイクの走行がシンクロしただけ、と言うのは簡単だ。

けれど、全てのモノから切り離され、私とバイクだけが浮遊したあの感覚は、先を急いでいた若い時には得られなかったものだ。




バイクのある生活は、新しい発見に満ちていた 【理屈は要らない】

バイクのある生活は、新しい発見に満ちていた 【理屈は要らない】

私のバイクには、タコメータが付いていない。

だから、回転数とギアの相性とか、何やら難しいことを意識しながら走る必要はない。

ただただ、

  • エンジンの調子
  • 道の起伏
  • 風の吹く方向

身体で感じる情報だけが重要なのだ。



とてもシンプルで、数字などを細かく気にする必要もない。

最近のバイクが多用している、ハイテクな装置が介入するスキも無い。

たぶん、女性にとってはそれが合っているのではないかとも思う。なぜなら、女性は感覚で物事を捉える能力の方が強いらしいから。



理屈なんて要らない。

  • エンジンが悲鳴を上げてるとか
  • なんか無理っぽいとか
  • おお調子いいじゃんとか
  • ガクガクするとか
  • スイスイ行くじゃんとか

こういった感覚に身を任せる楽しさに気づいた。



トルクバンドなんてどうでもいい。

物理や化学や数学的な思考ではなく、文学的に捉えれば良いのだ。

愛車に名前を付けて

  • おはよう、今日も一緒に走ろうねとか
  • 今日は頑張ったねとか
  • エンストしなくて偉かったねとか


機械であるバイクに声掛けしながら走るのがバイク乗り。

自分自身やバイクと対話しながら走っているという意味では、バイク乗り全体の特徴だったりするのかもしれない。

だから私一人が変なのではなくて、バイク乗り全員の傾向だろう。


25年振りに、バイクある日常に彼女は帰ってきた

25年振りのバイクのある日常

女は共感を求め、男は結論を求める。

TVでは、今日もコメンテータがどこかで聞きかじったフレーズを唱えてます。



しかし男女の差なくバイク乗りは感情で生き、共感を求めている気がする。

理屈や結論を求めるのなら、バイクに乗るという選択肢など無くて、車しかあり得ません。

道ですれ違いざま、ヤエーを交わすことも無い。

バイクで風と一体になった浮遊感は、車では味わえない感覚。

理屈では言い表せない至福の時です。



バイクで速く走るのも、楽しい。

けれどバイクと対話しながら走るのも、同等以上に楽しい。



25年のブランクがあったけれど、今でも私はバイク乗りなのだと思い知った。

再び手にしたこの、バイクのある日常を、私は噛みしめている。





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