ゆき江の嫁いだ家は、牡鹿半島のちょうど真ん中あたり。昔は鯨の水揚げで賑わった港町、鮎川だ。実家は石巻市内の繁華街。家業は魚屋を営んでいた。
捕鯨が盛んだった頃から先代と取引のあった漁師頭に請われて、ゆき江はこの町に嫁ぐことになった。江戸時代から続く捕鯨に携わってきた、由緒ある家だ。
夫の家は、国が捕鯨から撤退してから沿岸漁業で生活を維持してきた。近年捕鯨が再開され、技術を請われた義父は、時々捕鯨船に短期間乗船することもあった。
実家の魚屋もまた、明治時代に漁師から魚屋に転業した歴史がある。
ゆき江とカブと海辺の生活 ~郵便屋さんバイクに乗ると、見えてくるもの~

2011年3月11日、東日本大震災による津波でゆき江は家を失った。漁から戻って港にいた夫と、自宅にいた義理の両親を亡くした。
夫は未だ行方不明で、共に漁に携わっていた義兄と夫の従兄弟も見つかっていない。
ゆき江の一人息子は後を継がず、ほど近い都市に出て郵便局に勤めているので無事だった。結婚しているが、まだ子供はいない。
仮設住宅での一人暮らし

一人暮らしになったゆき江に、息子は同居を勧めた。しかし、ゆき江は港町に残ることに決めた。仮設住宅に暮らしながら、町の復興を手伝う日々。
初めは死に物狂いで夢中だったから、気も紛れた。しかし、仮設住宅に移り一人暮らしになると、孤独感や虚無感、何よりも実際に目の当たりにした津波の恐怖感に襲われ、眠れない日々が増えていった。
明るい性格だったゆき江は、考えないようにしようと決めていた。とにかく目の前のことをこなし、淡々と生きようと努めた。
それでもふと無意識に、生きていることが辛いと感じることが増えてきた。毎週のように息子が訪ねて来てくれたが、気が紛れるのはつかの間だった。
赤いスーパーカブの思い出

母親の様子を見て心配した息子は、たまには仙台に遊びに来たらと言った。春、もうすぐ桜が咲くころ。息子の連休に合わせて、仙台へ行くことにした。
街を歩き大好きなデパート巡りをする前に、車で行きたいところはないかと聞かれた。お前の勤め先に行ってみたいと、半ば無意識にゆき江は言った。
息子の仕事は郵便配達員だ。赤いカブに乗っていると話に聞いていた。ゆき江は、その赤いカブと乗っている息子の姿を見たいと思っていた。
ゆき江がまだ小学校へ入学する前、家のポストに手紙を配達してくれる赤いバイクを待つのが日課だった。
捕鯨船でオホーツク海まで行っている父親からの手紙を待っているのだった。父親は子供の頃から家業の魚屋を継ぐ決意をしていたが、水産高校を卒業すると、祖父の取引先の捕鯨船に乗りたいと言った。
だから、ゆき江はものごころ着く前から、鯨の町へ行く機会が多かった。父親が捕鯨船に乗っていた頃は、船の見送りや出迎えに、母親と弟たちと必ず行った。
ヒラヒラと風に揺れる色とりどりのテープを見るのが好きだった。テープの片方は岸壁にいるゆき江と母親が握り、もう片方は船の上の父親が握っていた。
息子が見せてくれた赤いスーパーカブを見ていると、いろんな思いがこみ上げてきた。
青いスーパーカブとの出会い

仮設での生活が落ち着くころ、中古の軽自動車を手に入れた。車を買ったのは、ホンダ車を主に扱う小さな中古車販売店。店頭にはバイクも数台置いてあった。
その中に、見慣れた形の白と青の小さなバイクがあった。説明を聞き終え、車のキーを受け取って外に出ると、ゆき江は店主に聞いた。
あのバイク、なんつー名だや?
おー、あれが?スーパーカブだ。ほれ、郵便屋さんが乗ってんの、あれだ。
えっ?あの赤いバイクだっちゃ?
んだ。
ありぁ〜!
ゆき江は、夢中になって質問を続けた。いくらで買えるのか、免許は車と別に必要なのか、自分にも乗れるのか等など。その夜は慣れない車の運転のことで頭がいっぱいで、カブのことは考えなかった。
ゆき江は子供の頃から郵便配達の赤いバイクに憧れていた。自分も乗りたいとは思わなかったが。
だけど、次の朝、青いスーパーカブのことを思い出したら、海岸沿いの道を走る自分の姿が思い浮かんだ。
なんて素敵なんだろう。自分があの郵便屋さんのバイクに乗って走れるなんて。その日は、新車の慣らしのために町の仕事を休んでいたから、そのまま自動車販売店へ向かった。
ホンダのスーパーカブは、1958年に誕生してから、世界生産累計1億台を超え、世界で最も売れたバイクと言われている。
軽自動車を慎重に運転して店に着くと、ゆき江は店主に言った。
あの青いバイク、欲しいんだげど。
郵便屋さんバイクに乗ると、見えてくるもの

そして今、ゆき江の家の前に軽自動車と並んで青いスーパーカブがある。仕事へ行く前に、夜明け前から走り出して海へ日の出を見に行くのが日課になった。
ゆき江は日に日に明るさを取り戻し、食事もたくさん食べ、夜もぐっすり眠れるようになった。悲観的な思いは消えつつあり、明日の朝を楽しみに、布団に入って笑顔で眠りに落ちる。
スーパーカブの運転に慣れた頃、ゆき江はひとつの冒険を決意した。
次のお休みは、息子のところまで行ってみようかな。たった一通だけ、奇跡的に手もとに残った、お父ちゃんからの手紙を息子に見せに行こうと決めた。
赤いスーパーカブの郵便屋さんが運んでくれた、お父ちゃんからの手紙。
オホーツク海は、おどげでねーほど広くて、満天の星空がたまらねぐ綺麗だぞ。と、書いてあった。
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