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シーズン2第11話:オートバイで旅に出たくなった日

思い出の写真 バイク女子

その日、猛暑の夜の寝不足で、早起きはしたもののバイクで走る自信は無かった。

一日中、部屋にいることにした。

ただゴロゴロすることにも飽きた。

そこで、過去のネガフィルムとポジフィルムの整理をすることにした。

手つかずのパンドラの箱を。


とうとう自分のバイクを所有して、乗りたい時に乗れるようになった 長年漠然と抱えてきた思いが、実現したのだ

シーズン2は、より遠くへ行くことよりも、無理なく少しずつ カッコつけではなく、ゆっくり確実丁寧に走ることを大切にしよう

みどりのシカ




オートバイで旅に出たくなった日

思い出の写真

忘れていた過去の自分、過去に行った場所を写したフィルムがたくさん出てきた。

忘れていたとはいえ、大半は個人ブログに掲載した写真ばかりだから、見覚えは確実にある。

バイク女子時代、大きな旅をふたつした。

大きな旅というのは、自分が住む地方を遠く離れるという意味だ。

走った距離でいえば、この東北の例えば秋田や青森へ行くとなると、かなりの距離になる。それはそれで大きな旅と言える。

しかし、気持ち的には住んでいる場所と同じ東北であるという、親近感のようなものがある。だから、かなり遠くへ旅したという気持ちにはなりにくい。

私の過去の大きな旅、それは、四国一周と沖縄本島一周のふたつの旅だ。


沖縄への旅

沖縄への旅

最初に行ったのは、沖縄。

子供のころから憧れていた場所。

国とも言えるかな。


私の子供のころは、沖縄はまだアメリカだったから。

何も知らない子供の自分にとって、アメリカという響きは、自由の象徴でもあった。


私がバイクに乗るようになるほんの何年か前に、返還されて沖縄は日本に戻った。

そして何より、故郷の冬の寒さに辟易していた私にとって、温かい国は理想的でもあった。

当時は東京から沖縄行きのカーフェリーがあった。

頑張って東京まで走れば、あとは船に揺られて2日間。のんびりしていれば沖縄に行けるのだった。

当時の私はいわゆるフリーターで、祖父母の介護と自営業で押しつぶされそうになっていた母を助けて、病院の祖父母の付き添いをしていた。父は既に亡く、母は一人でまだ学生の子供たちの面倒もみていた。

私は成人していたとはいえ、反抗的な子供だった。だから母への思いやりではなく、バイト代目当てに手伝ってた。




祖父母を見送ると、ポカンと心と時間に穴が空いた。

これからどうしよう。




不謹慎だけど、開放感もあったから、旅をしようと決めた。

バイクは、2台目のヤマハセロー225。

目的地は、憧れの沖縄。


たくさんの思い出ができた。

ドラマチックな出来事もあった。

忘れられない旅になった。




四国一周の旅

四国一周の旅

ふたつめの旅は四国一周。

当時は、仙台から名古屋へのフェリーが無かったのか、あえて自走を選んだのか、知らなかったのか、記憶に無い。



東京、長野、滋賀を経由し、途中何泊かして、岡山の宇野港から四国へ渡った。

帰りはひたすら東海道を走り通し、名古屋東京を経てへろへろになって帰ってきた。



なぜ四国か、といえば、当時の私は片岡義男に没頭していたからだ。そもそも、バイクに乗り始めたきっかけが、片岡義男の小説だった。

彼の作品は映画にもなり、特に夢中になったのが「彼のオートバイ彼女の島」だった。その舞台のひとつが四国だと知り、行きたくてたまらなくなったのだ。

2台のオートバイが、分かれ道をふた手に分かれて走るシーンだ。

しかし、今思えば、それがなぜ四国だとわかったのか、事実なのかどうかも定かではない。

やっとたどり着いた四国は、大半が雨だった。

心に残った記憶といえば、酷道439(よさく)を泣きながら走ったこと。

車高の高いヤマハTT250では、ヨサクのタイトなワインディングはキツかった。




小雨降る海岸の岸壁で食べた高知の天ぷらとトマトの美味しさ。

自転車を借りて行った谷底の温泉からの辛すぎる帰り道の思い出。

全てが愛おしい。



思い出の写真

思い出の写真

写真がデジタル化することで、色褪せることは無くなった。

時が固定化されてそこにある。

それが良いことなのか、そうでないのかは私にはまだわからない。


ただ言えるのは、2つの旅が私の中心に居つづけてるということ。

常に私を旅にいざなう。




些細な思い出だけど、ことあるごとに思い出す。

何度も繰り返し語るだろう。

たぶんこれからもきっと。





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