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シーズン2第9章:雨もそんなに悪くない

雨も悪くない バイク女子

峠の先の街の天気予報まで確認しなかった。

どうせ狂ったように逃げ場のない猛暑だろうとたかをくくっていた。

暑さが本気になる前に退散すればいいだろう.


いつものように。


雨もそんなに悪くない

雨もそんなに悪くない

その朝、久々にバイクに乗ろうか迷いながらも4時にセットした目覚ましで起きた。

窓を開けると鮮やかな虹がかかっていた。走ろう そう決めた。

早朝5時半に街を出て6時台。 隣県を結ぶ主要国道は空いていた。

ごく少ない長距離トラックや、早い通勤の車が快適に飛ばしていく。

県境の峠の長いトンネルへ向かう少し手前、 上りのワインディングが始まる手前の温泉街あたりからはノンストップだ。

緑の深い渓流に沿った美しい国道48号線。長い年月をかけて整備され、コーナリングが不得意な私でも苦労せずに走り通す事が出来る。


かつて

いまから40年くらい前、バイク女子時代はちょっと苦手に感じていたはずの道だった。



アップダウンのある、キツめのコーナーがけっこうあったような記憶がある。

そのくせ隣県を結ぶ主要国道だから交通量は多いし、スピードを上げる車も多い。何度後続車を追い越させても、すぐにまた追われる立場になる。

そこにもってきて、きついコーナーの連続。

そして、日本海あたりへのロングツーリングから、いくつか山越えしてきた疲労のピークと早く帰りたい焦りの気持ち。



この道が苦手だった理由は、そんなところか。


目的地なんて

温泉街にさしかかる頃には、気温がぐっと下がってきた。路上の電光掲示板は19℃。 この先の峠はさらに下がるだろう。

いつもは目的地を決めて走ることが多いのだが、今日は決めていなかった。

気分が乗らなきゃ、街をぐるぐる回って帰ってきてもいいと思っていた。



バイクの側でゆっくり身支度をし、ネンオシャチエブクトウバシメ。

グローブを付け気持ちを整え、バイクに跨りアクセルをゆっくり開ける。

路地を進んで大通りへ突き当たる。 左右を見て右のウインカーを点滅させると同時に、北西に進路を取ることに決めた。




小休止

峠の手間の温泉街へ向かう前に、コンビニで腹ごなしとトイレ休憩。

夏にありがちなお腹の不調のため、先に買ってきた温かいほうじ茶があるから、鮭おむすびひとつ購入。

レンチンしてもらった。

イートインは無くて、駐車場に止めたバイクの横の車止めに腰掛けて食べた。

単純に美味しかった。



バイクで走って外で食べる物は、単純な物がいい。

その場にある、たとえば風景とか、空気とかを邪魔しない、単純な食べ物。

おむすびだけじゃない、その場の氣のようなものをいただくのだから。

そういう意味で、おむすびは、まったく相応しい食べ物だ。

ほうじ茶も鮭おむすびも、シンプルなのに驚くほど美味しかった。



あの頃もこんな感じだった。



人は齢をかなり重ねても、変われない一面があるのだろう。

車止めに腰掛けておむすび。還暦をいくつも過ぎたおばあさんには、みっともない姿かもしれない。

本人にとってはごく自然な姿に他ならないのだが。



さて、隣県との県境の峠へ向かって走ろうか。

引き返すにはもったいない、我ながら稀に見る好調な走りが続いているのだから。

いつもの小さなミスやうっかり、ぎこちなさや初歩的エンストも無く、すべてがスムーズに心も静かで冷静だ。



解放

愛車のティーダこと、250TRの調子もすこぶるいい。

前回から10日以上経過しているのに。

ここのところ、日常生活では心をざわつかせる困難な状況の中にいるから、この好調さは意外だった。

もしかして、人は困難な中にいる時、心は静かになるのかな。

ああ、諦めってやつか?

人は、大概のものを諦めた時、そこにある真実だけを見ようとするから、雑念から解放されるのかもしれないね。



空は青空がのぞいていたけど、雲は多め。峠の方向はグレーの雲に覆われている。街を抜ける頃には既に涼しすぎた。

山に入ったら、もう寒い。

温泉街を過ぎたあたりの電光掲示板は、19度と知らせていた。



必然と奇跡と

もうすぐトンネルだ。後方に車がいない事を確認し、スピードを緩める。

左手をハンドルから離して素早くシールドの中のサングラスをずらす。

鼻メガネだ。 偏光とか調光ではないから、サングラスをつけたままでは暗くて周りが見えない。

トンネルの中は、期待外れに生ぬるい気温だった。

多くの場合、トンネルを抜けると天気がガラリと変わるのだが、大した変化は無かった。

それどころか、程なくしてポツリと雨粒があたる音がした。

とりあえず産直市場まで行って、地図を見てから考えよう。

その道はコスモスラインと名付けられているが、月山眺望ラインとも呼ばれているようだ。

その名の通り、まっすぐな道の正面には月山が見えている。

低く垂れこめたグレーの雲の下、月山のあたりだけ雲が切れて、ごく薄い青空を背景に、月山のなだらかな山頂が見えている。

朝の虹といい、月山といい、奇跡のようなことが続く。




産直市場の駐車場は開いていた。

適当な場所にバイクをとめて、グーグルマップで雲が切れている方向を確認しようと思った。

スマホを取り出したとたん、雨粒が大きくなった。雨は本降りになりそうだ。

引き返そう、そう決めた。 とたんに、雨は本降りになった。



トンネルまで行けば、大丈夫だろう。

トンネルの向こうはきっと晴れている。



トンネルの向こうは、小雨だった。たぶん、風で山を越えてきているのだろう。

しかし、雨は止むどころか、本降りになりそうだ。

走っても走っても雨雲が追ってくる。

ヘルメットの雨粒を革グローブで拭う。

ジーンズの足の付根に雨がしみてきた。



雨宿り

もうだめだ。 通りかかったコンビニで雨宿りすることにした。

トイレに駆け込み、身体も冷えていたから、ホットコーヒーだ。お菓子も買った。

軒下で雨を見ながらコーヒーを飲み、お菓子を食べた。

1台の黒いバイクが私のバイクの前にとまっていた。

ライダーらしき装いの男が店から出てきた。



こんにちは。

天気予報、雨って言ってませんでしたよね。

これからどちらへ?

ダム湖を巡ってきたんだけど、雨降っちゃって。

どうしようかなあ。




黒いバイクのライダーは、雨の中走り去った。




雨の中へ

さて、私はどうしよう。

濡れて参るか、止むまで待つか。

ゆっくりコーヒーを飲みながら、またぼんやりと雨を見る。

やわらかいスポンジ生地にクリームが入ったお菓子は美味しくなかったなと考えていると、雨はほんの少し小ぶりになった。

店内にゴミを捨てに行き、出発することにした。


雨は止まず、安定した降りが続く。

朝からの心の状態も変わることなく、静かに凪いでいる。






雨もそんなに悪くない

雨もそんなに悪くない

交通量が少し増えた道を無事走り通し、馴染みのスタンドでガソリンを入れる。

バイク置き場の定位置にとめ、タオルで雨と少しの汚れを丁寧に拭き取る。



カバーをかけ、

今日はありがとう、またね。

と言った。



ジーンズの股の間が雨で濡れたまま、近くの施設でトイレを借り、ジーンズが乾くまでそこにいた。




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