あれは私がバイクに乗り出して数年後、例年より早く梅雨が明けた夏の日だった。
通りは熱せられた空気で景色がゆらゆらとゆがんだように見えていた。遠くでセミの合唱が鳴り響き、自分達の季節であることを主張していた。
そんな午後の時間、陽炎をかき分けるように一人の青年が私の実家に現れた。
著者プロフィール
名前:みどりのシカ
女性だけどバイクに魅せられた。20歳で初めて自転車に乗れるようになり、その2年後に中型二輪免許取得。きっかけは片岡義男「幸せは白いTシャツ」と三好礼子氏との出会い。
20代の頃、ほぼ毎日オートバイに乗っていました。遠くは四国、沖縄まで旅をしました。わけあってオートバイを手放してから、かなりの年月が経過。
けれど幸運なことに、いきなりバイク復帰しました。25年ぶりの相棒は、KAWASAKI 250TR。愛称をティーダと名付けました。ただいま、自分慣らし中です。
奥松島の漁師の言った言葉
彼は、私が四国一周ツーリングの途中で出会った青年だった。
見覚えはあるのだが、私は彼と出会った場所がどこだったか、思い出せないでいた。
当時は毎日のようにバイクでツーリングに出掛けていたので、四国のことは記憶の彼方に沈みかけていたのだ。
四国ツーリング途中のユースホステルかどこかだとは思う。
当然、名前すら思い浮かばない。
しかし、彼は覚えていたのだ。
四国で出会った時にすでに日本一周中だった青年。
彼は、『東北に来たら寄ってね』と言った私の言葉を覚えていた。
歓迎の宴
母は、見知らぬ彼を家に上がらせ、歓迎の宴を始めた。
地元から離れたことのない母にとって、外からやってきた見知らぬ旅人の、体験したこともない珍しい話を聞くのが楽しくて仕方なかったに違いない。
彼は小柄で20代前半、人懐こいタイプの青年だったから、余計に親しみやすかったのかもしれない。
その日は実家の居間に泊まってもらい、翌日2台で奥松島まで走ることにした。
奥松島へのツーリング
塩釜以北の海へ行くときは、いつも45号線を走る。
交通量が多いけど、45号線は確実に海へと繋がっているから、迷うことはない。松島海岸を過ぎてすぐに右折すると、交通量はぐっと減って、のんびり走れる道になる。
目的地は、子供の頃から海水浴に行っていた、大好きな海岸に決めていた。
バイクに乗り始めてから初めて行ったツーリング先でもある奥松島。
野蒜海岸から更に進むと、小さな橋を渡って宮戸島へ行ける。先端まで行くと、美しい小さな浜がある。
月浜だ。
月浜は小さな海岸だけど、穏やかな波と白い砂が美しい私のお気に入りの場所。
奥松島の漁師の言った言葉
岸壁にバイクを止め、ヘルメットを持って2人で砂浜を歩いていた。
すると、仕事を終えた漁師さんたちが休んでいる場所に通りかかった。
声をかけられ、一人の漁師さんがこう言った。
「平日からぶらぶら遊んでっと、年取ってからツケがまわってくっぞ」
その言葉を聞いた瞬間、2人の若きライダーはひるんだ。
返す言葉も無く、ぺこりと頭を下げて、早々にバイクをとめた岸壁の外側まで引き返した。
その後、どう帰ったのか記憶はあいまいだ。
しかし、その言葉は、今でもことあるごとに脳裏に浮かぶ。
くっきりとその場のシチュエーションまでも思い出される。
当時の私は就職に失敗し、ダラダラとモラトリアムを続けながらバイクに乗りまくっていた。だから、いつも自責の念にかられていて、その言葉は心にまっすぐに響いたのだった。
日本一周中の彼は、尚更そうだったかもしれない。
今も彼女に問い掛け続ける
あれから多くの歳月が経ったけれど、漁師の言葉は私の胸の奥で漂い続けている。
事あるごとに、私に問いかける。
「これで良いのか?」と。
「平日からぶらぶら遊んでっと、年取ってからツケがまわってくっぞ」
しかし、何度言われても、私は自由に生きることを諦めきれなかった。
世間の常識に合わせようとするほどに、仕事も生活もうまくいかず、道を外れてしまうのだ。
帰郷
2011年、関東に居た私は病気や経済的な破綻をきっかけに、ほとんどの物を失った。
そして、3.11の津波の映像を毎日、見続けた。
生きるのに必要なものはさほど無いのだなと知った。
生きているだけでいいんだ、そういう答えに達した。
震災をきっかけに、なぜか里心も強まった。思い余って実家を頼り、今の平和な日々がある。
再起
あれから何年経ったのだろう。
元気になり、日常というものが戻ってくると、さまざまな欲望が生まれる。
自由を求め、今またバイクに乗り始めたところだ。
「平日からぶらぶら遊んでっと、年取ってからツケがまわってくっぞ」
そのうち、再びツケが回ってくるかもしれないね。
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