病魔やトラブルに負けない強い身体と心を作るのは、たぶん、寝ること食べること遊ぶことだと思う。
負けないこと逃げ出さないこと信じ抜くこと
という素晴らしい歌があったけど、私のようなタイプには向いていない。
飽きっぽくて、興味の無いこと楽しくないこと、自分にとってはどうでもいいことを考えることができないタイプだからだ。

バイク復帰してほぼ1年半が経過
やっと気持ちよく走れるようになってきました
はじめの頃は、ガクガク感とかエンストが続いていたティーダこと中古の愛車250TRも、油断さえしなけれほぼ快調
2人とも無理なく走れる距離は、100キロからいきなり200キロを超えました
ノリノリの季節が始まったようです
くうねるあそぶ

基本的に、面白いこと楽しい事しか身体の中に取り入れたくない。
どんなに時間をかけても、回数を重ねても興味のない楽しくないことは記憶出来ない。
負けない逃げない信じ抜く、私にとって、それらはどこか苦しさを伴う。
本当の幸せはそういうところから生じるのだろうけど。長く続くとそうも言っていられない。
人は楽しい気持ちいいことしか続けられないからだ。
そして、一番基本的な欲求は生きること。
だから、生き続けるために必要なことは、気持ち良くて楽しいことが多いのだと思う。
美味しく食べること、気持ちよく寝ること、楽しく遊ぶこと。
嫌なことは、できる限りやらない

まず、生きることがうまくできていないと、戦うことも信じることも前に進むこともできないような気がする。
とはいえ、食べられない、食べすぎてしまう、眠れない、趣味が見つからない、となると、それらはストレスにもなってしまう。
私の場合に限っていえば、嫌なことはできる限りやらない。
余計なストレスを感じることを排除する。
大変なこと、困難なことをやらないのとは違う。
大変でも困難でも、自分が選んで好んでやることなら苦ではない。
やり遂げた時のご褒美もある。
心地よい疲労感と達成感。
ご飯が美味しい、よく眠れる。
何より、ストレスフリーな事が肝心だ。
おちこむこともあったけど

そういう私も、生まれてからずっとそんな感じで生きてきたわけではない。
30代頃からは地獄の結婚生活と孤独と貧困。
10代から20代頃は「落ち込んでる」が口癖だったし、小学校の頃は生きていても楽しくなかった。
学校も嫌いだったし、友達もほとんどいなかった。
家でも理解者がおらず、小さい頃は忠犬とぬいぐるみが友達だった。
でも、忘れちゃいけない。
学生時代に50年来の親友が何人もできたのは、幸福としか言いようがない。
幼なじみの男の子とは、幼稚園まで大の仲良しだったし、祖父母はいつも私の味方をしてくれた。
我慢忍耐、常識と人の目を尊ぶ両親。
それに対して贅沢でなくとも美味しく食べること、人生を楽しむことを私に教えてくれた祖父母。
特に祖父は奔放でいろんな人から批判されていたけど、私にはそれが理想的な生き方に見えていた。
じいちゃんの作った煮物はとても美味しくて、私はいつもつまみ食いしていたし、
温泉好きのばあちゃんは、お金がなくなっても温泉通いをして、両親を困らせていた。
それでも、人生を楽しんでいるように見えた祖父母の生き方は、私の理想とする生き方となってしまった。
私はげんきです

国の事情、家庭の事情などで若い頃から苦労して生きてきた彼らが重んじていたのは、
食べること
寝ること
思い切り遊ぶこと
一生懸命、働くこと
与えられた自由を謳歌すること。
私は、とても大事なことを教わって生きてきたというわけだ。
小さい頃の孤独と大人になってからの本当の孤独と貧困から、私は自由を知った。
そして、オートバイとの出会いで、真の自由を知った。
自由とは、自分に責任をもつことだ。 もうひとつ付け加えるとすれば、いっとき全てを忘れるくらい夢中になれる何かがあると、困難なときの救いになる。
これは、最近学んだこと。
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