バイク乗りが撮る写真には、自分が写っていることはまず無い。
仲間とマスツーリングするタイプの人なら別だけど、多くのソロライダーが撮る写真には自分が写っていない。
バイクと並んで写っている写真ですら無いのだから、バイクに乗っている写真となると、なおさらだ。
私のように、写真を撮るために頻繁にバイクを止めるバイク乗りは稀だろう。
バイクの感動を写真に残すか、記憶に残すか

素敵な風景の中の愛車を、写真に残すバイク乗りは多い。
風景を主体とするか、愛車を主役にするかの違いはあるけれど、その日の感動を記録する行為だ。
そこに自分はいない。
いやバイクと一体になり走り抜けた景色だから、バイクを写すことは自分を写すのと同意なのかもしれない。
だから、バイク乗りが自撮りをする事はあまりない。
バックミラーに映る自分や、影、ソフトクリームを持つ手などを写すのがせいぜいだ。
SNSに流れるバイク写真

SNSでは日々、無数のバイク写真を目にする。
バイク垢をフォローしていると、毎日毎時、たくさんのバイク写真がタイムラインに流れてくる。
ツーリングのスナップもあれば、愛車のアップ写真もある。写真好きのバイク乗りもかなりいて、プロのような素晴らしい写真を、惜しげもなくSNSに上げている。
知らない場所、遠い場所、いつか走ってみたいと思っている道の写真が溢れている。
愛車への愛情がたっぷり伝わってくる写真も多い。
愛車や写真テクニックを見せつけることで、マウントを取ろうとしている人も居るかもしれない。
けれど多くの人は、今日の感動をSNSで共有することで、喜びを2倍3倍にしている。
SNSの中のバイクからは、一体となって走った持ち主の笑顔が見えてくる。
私のバイク写真

私の場合は、風景プラス愛車といった感じ。
バイク復帰2年目ともなると、けっこうたくさんの写真がたまってきた。
同時に、風景は違えど大体何パターンかの、似たようなアングルの写真が多くなってきた。
特に画面の中のバイクの位置。
- 風景の片隅にさりげなく小さく写っているもの
- 横向きで画面の左に寄せて少し存在感を主張しているもの
- 真ん中でバイクが主役になっているもの
- ヘッドライト方向からと、ナンバープレート側から撮ったもの
これらは、バイクの存在は小さくしか写ってなかったとしても、とても印象的な写真になる。
特に、ヘッドライトやウインカーが灯っていると、ドラマティックな写真になる。
光と影、それは写真とは切っても切れないものだから。
靄のかかった山の中の道、濃霧で霞む海沿いの道そんな場所でライトの光が白っぽい空気の中をまっすぐに照らす様子はとても素敵だ。
想像力を働かせて、これからこのバイクは何処へ向かうのか、物語を作り上げることも可能だろう。
ただ、いつも残念に思うのは、走っているときに目にする素晴らしい風景を、そのままの状態で撮影できないことだ。
あ!と思った瞬間、すぐさまバイクを路肩にとめると、もうその風景はそこにはない。
アクションカメラなら、瞬間を逃さない?

走りながら動画を撮れるアクションカメラがある。
ドローンで撮ったような、360°の走行動画が容易に撮れるアクションカメラもある。
走行中のバイクを含め、景色を俯瞰した素晴らしい絵が撮れるようだ。
しかし、全てを撮れば感動を取り逃がさないかと言うと、何かが何だか違う気がする。
帰宅後に動画から、自分が「あ!」と思った瞬間の風景を探し出せば良いのだろうか。
たぶん、見つけることは困難だろうと思う。
動画だと、やはり気が付かない内に流れて行ってしまう気がする。
感動はほんの一瞬の事で、その場に居てこそ感じられるものだ。土地の匂い、空気の冷たさ、季節の変わり目、五感を総動員して初めて「あ!」と感じるのだ。
バイクの感動を記憶に残し、写真に残す

本当は、写真を撮ることを意識せず、その時その場で自分の記憶や感性の中に、しっかり取り込むべきだ。
そう気が付いたのは、写真部時代のことだった。
素晴らしい風景を見てきたはずなのに、あまり覚えていない。
それは、とてももったいないことに思えた。
写真を見返せば、いつだってその時のことを思い出せるのだが、その時感じた一瞬の感動までは、戻らないような気がする。
だから、あくまで全身で感動を受け止めるのが先だ。記憶に残してから、写真に残す。
撮りためたたくさんの写真は、老後の自分をしっかりと楽しませてくれるに違いない。
走りに徹して写真はほとんど撮らないタイプも多いだろう。
記憶に残す・写真に残す、残し方はそれぞれ。
バイクは走ってなんぼのものだから。
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